SSブログ

書画同一? [絵画技法]

水墨画の世界の「書画同一」

書道から水墨画に入りやすいと言われています。また、水墨画は基本的に書道と同じ道具を使うという人もいます(日本だけ?)、そのため、書道をやっているならすぐにでも始められるはずだとか、ご顔が多いようです。

中国では「書画同源」ということがしばしば言われます。

言うまでもなく書画同一は、古時代の文人・文人画的な考えです。

想像力や連想する力が特に示されているように思われる李白の詩「白髪三千丈」(白髪、三千丈)で、この「三千丈」は、約九〇〇〇メートル、もちろん、多い、長いということを示す形容ですが、実際の長さをいうのではありません(白髪三千丈、縁愁似箇長。不知明鏡裏、何処得秋霜。)。
中国人は古くから連想する力を働かせて、関連付けしています。「書画同源」の他、「医食同源」などもあります。


「書画同源」とは、書と絵画、すなわち水墨画と起源が同一のことです。
一番理解しやすいのは、運筆にあたるのではないかと思います。
中国の場合、特に古くから見られる白描の絵は墨の線だけで描いたものです。
「鈎勒填彩」のベースにもなる鈎勒も線が基本となり、色塗りした後も再度線を引くのもそのためです。この早期の表現手法は中国の漢代に始まったもので、魏・晉時代に完成されました。

また、中国の文人たちにとっては、書(つまり文字)と絵画(すなわち水墨画)とは、当たり前のように絹(元代以降は主に紙)、墨、筆という同じ用具を使って制作する「線の芸術」で、線以外の形だと側筆などを用い、これもまた線の延長線にあると考えられていました。「書画同源」を主張しているのは元時代の趙孟頫がその代表で、多くの場合は文人画家です。

文人画家は書の筆法をもって墨竹、墨梅などの絵画を制作した。北宋時代の画家米芾(べいふつ)、元時代の画家趙孟頫(ちょうもうふ)、明時代の画家徐渭(じょい)、董其昌(とうきしょう)のように、彼は画家だけではなく、同時に書家としても高名な人物は数多くいました。

書画同源に近い最も古い考えは唐時代の張彦遠で、彼はその『歴代名画記』の中で「書と画とは同体異名であり、そもそも文字の起源は象形、つまり画であった」と言っています。

山水画や竹の絵などの名作を残した元時代の文人画家・趙孟頫は、「書画同源」を明確に主張しています。彼は「石は飛白の如く、木は籀(発音、ちゅう)の如く、竹を写しては書の八法に通じるべし」と言いました。この「飛白」とは今日われわれが言うカスレのことで、かすれた線を用いる書体の一種、「籀」とは大篆(発音、だいてん、秦始皇帝による書体の統一がなされる前の書体、つまり金石文)、「石を描くときは飛白のようなかすれた線で描き、木を描くときは大篆のような線で描き、竹を描くときは「はね」「払い」などの書の八法を用いるべきだ」ということです。

永字八法でも「とめ」「はね」「はらい」の説明がわかるように、実際竹の絵を作例にしてみると書画同源の考えがよく納得します。

さて、同源ではありますが、あくまでも起源のことを言っていますので、実際展開は異なり、書の線だけでは水墨画が無理なところもあります。

職業の細分化の今の時代、画家であると同時に書家でもあることは、むろんすでに古い考え方です。そういう意味でいつまでも「書画同源」を主張すると時代遅れです。

しかし一方水墨画をやっている以上、無力な描線や運筆、あるいは落款も汚い字を書いたりすると、観る人からの印象はきっと良くないはずです。書家を目指すわけではありませんが、少なくともダサい字を書かないでほしいですね。



Facebook コメント